特別企画 家系図普及企画 割引制作 先着応募2名様
🔲父方直系一系統のみ( 64,000円 ⇒ 32,000 円)となります。無料資料請求フォーム、お電話でお申し込み下さい。3,4日以内に資料送付します。※応募者2名達成しだい締め切らせて頂きます。
🌿 みんなの汗と誇りを次の世代へと紡いで行く
遠い昔の家族のことを懐かしがったり、悔やんだり、頭の中に現れ消えて行きます。
名も知らぬご先祖のひとりひとりが、幾多の困難を乗り越え命を繋いできたことが家系図から見えてきます。
日々の暮らしの中で、ふとした瞬間にあなた方から温もりを感じることがあります。
きっと遥か遠い彼方の私の知らない世界から、降り注いでくれているのでしょう。
🌿 我が家の歴史は身近にありました
かつて雪を踏みしめ、はるか遠いこの地に居を構えた先代の魂は今に続いている。
記録は、古びた柱に刻まれた大黒柱の傷跡、子どもの成長、願いが刻まれている。
今は、老夫婦二人だけだが、そこには家族が賑やかに過ごした家族の証が残されている。
風が吹くたび、ガラス窓がいつものように響き、遥か遠くからの懐かしさを届ける。
我が家に記録は残っていない。記憶が頼り。
私の歴史は、働き者だった祖父の手の皺から見つけられる。
我が家の歴史は、祖母が笑顔で寝床で話してくれた昔話に残っている。
🌿なぜ、私が家系図に興味を持ったのか
自分をもっと知りたい、そして迷いの生き方に自信を持ちたい
•家族の姓にはどんな意味があるのか?
• 自分のルーツは何処。粗祖母は何処から嫁いで来たの。
• 家族の価値・歴史感は自分に影響を与えているのか。
家族は大切、歴史を伝え、守って行きたい
• 口伝や記録は薄れ、失くなってゆく、「記憶の器」として、家系図を残したい。
• 祖父母の口伝え、戸籍を体系化は解りやすく伝わるのでは。
癒しとつながり
• 可愛がってくれた亡き家族の笑顔、思い出を振り返りたい。
• 家族の境遇や苦労から、変わるキッカケになるのでは。
文化・地域への帰属意識
• 先祖が代々守ってきたこの土地を、次の世代が守り続けてほしい。
• 我が家の伝統、地域の行事を守ってほしい。
引き継がれる
• ルーツの偉業を知り、指針や誇りを持ってほしい。
•「先代の願いがあるんだ」と感じて欲しい。
家系図は単なる系譜の流れだけではなく、魂の渓流となり流れて行きます。
一社)家系図普及会 3つのモットー
系図からのご先祖、言い伝えられて来た家族を「物語」に仕上げる
家族のみなさんに分かってもらえる家計図を制作する
納品後に判ったことを追記し、修正のメンテナンスを行う
※戸籍調査で記載されていなかったご親族様などのお名前や生年月日等の情報をご提供いただければ、家系図に無料で追記します。
家紋の調査は行っておりませんが、その画像や名称をお知らせいただければ、家系図に無料で家紋をお入れいたします。
万が一、誤字などがある場合は、修正し、交換・補正等必要な措置を講じます。
家系図専門に扱う者として、戸籍調査からお引き渡しまで、お客様の大切な情報は厳重に管理させていただき、守秘義務を果たします。
読み解く力、レイアウト等にも工夫を凝らし、低学年にもわかりやすい家系図に仕上がるよう工夫して作成しております。
ー私どもで気づかないこともあると思います。ご遠慮なくお申し出下さいー
<お問い合わせ・お申し込み>
〒010-0951 秋田県秋田市山王三丁目7-5-202
家系図学会会員 一般社団法人家系図普及会
☎: 080-5220-7380 メールアドレス kk348898kk@gmail.com
ー料金体系ー
◾シンプル ①家系図のみ ④戸籍謄本原本 ⑤USBメモリー
1系統 30,000円 (父・母のいずれかの家系)
2系統 58,000円 (父・母の双方の家系)
4系統 110,000円 (父・母、祖父母の4系列家系)
◾セット ①家系図 ②系譜 ③生没歴史年表 ④戸籍謄本原本 ⑤ USBメモリ 1系統 64,000円
2系統 95,000円
4系統 180,000円
※お薦め!「家系図」「系譜」(ご先祖一人ひとりの履歴書)や、「生没歴史年表」(生没年月日と歴史年表)の3セット
長寿のお祝いの贈り物、記念品として人気
上記料金には自治体への戸籍請求支払い、切手代のほか、ご納品の際の配送代金等が含まれます。通常追加料金は発生いたしません。
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![]() 「系譜」 | ![]() 「生没歴史年表」 | ![]() 「収納綴」 |
🦉**皆さんからのお問い合わせ **

どのような方が依頼されるのですか。
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依頼のお問い合わせは様々ですが、作成目的を持っている方が多いように感じられます。
以下に、今までお問い合わせのあった内容を記しますので参考にしてください。
・墓参りの都度、祖父の話が気になっていました。川が決壊して「一人は村人に救い出されたのだが、逃げ遅れた双子2人は近くで抱き合うように見つかった」悔しい思いがずーと残っていて、目に焼き付いている。このまま墓に持っていこうと思っている。
・終活、相続を考えなければならない高齢者。自分の人生を更地にして、次の世代に新しい「我が家」を築き上げて貰いたい。
・小さい頃、「あんたはうちの子ではない」と親戚から言われた事がある。それがわだかまりとなっている。
・子どもに、家計図から思いや感情、探究心、表現力を持てるようになって欲しい。
・結婚・出産を機に、父母、祖父母からの言い伝えを今のうちに聞き、「我が家のルーツ」「物語」として一緒に残したい
•村落の成り立ちや開拓の歴史は、我が家の歴史と同期いると思え、記録として残しておきたいと思った。

古代の日本人は、外との血の交わりはあったのでしょうか。
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「血の交わりはあった」ことは、研究者、縄文期の遺跡からも通説となっています。
現在の日本人はのっぺりの平坦な顔立ち。いわゆる「うすい顔」です。
縄文人は、彫りが深くて二重まぶた、眉やヒゲが濃い、「濃い顔」をしていました。なぜ日本人の顔は、二つに大きく別れたのか。
やがて、弥生時代に入り、米作りとともに朝鮮半島から渡ってきた多くの渡来人が、日本列島にいた原日本人と交わり、現在の日本人が出来上がったことは、DNAからも証明されています。
縄文人と弥生時代以降の人とでは顔つきや身体的に違いがあります。
縄文人は上下の歯が毛抜きのようにぴったりと噛み合っていました。弥生時代以降、米などのわらかい食べ物を食べるようになり、下顎が退化していったのではと考えられています。
意外なところでは、耳垢の違いがあります。日本人は耳垢が乾燥している人と湿っている人に分けられます。多いのは乾燥している人で、縄文人は湿っている人が多かったようなのです。朝鮮半島の人々は乾燥している人が多く、日本人が弥生時代に朝鮮半島からやってきた人々の影響を受けたことがわかります。
縄文人は男性で平均160cm弱と今と比べ随分低かったようですが、骨太で筋力が強く、がっしりした体格でした。狩りや漁などで、山野を走り回ったり、力仕事をするのに適したたくましい身体だったことが判っています。
同じ日本でも沖縄の人と北海道のアイヌ人は、今でも縄文人の特徴をよく残しています。沖縄の人などを見て、彫りが深くて、違う顔つきに気付きます。

代々東北に住んでます。蝦夷(えみし) 蝦夷(えぞ)蝦夷(アイヌ)との関係を教えて欲しい
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文字の持たなかった人々で、ミステリアスなことが多いのですが、古事記に一部残されています。鵜呑みには出来ないことも多いようです。以下に詳細を記載しますね。
蝦夷は、東北地方北部(青森県の津軽平野が北限)にも住んでいて、水田・稲作が一時的に行なわれたが、広まることなく、狩猟・採集文化を守り抜いた集団と言えます。
蝦夷の特徴は、「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは、獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記録が残っています。
平時には和人と昆布・馬・毛皮・羽根等と引き換えに、米・布・鉄器・工芸品と交換していたと記されています。
やがて、大和政権は支配領域を北に攻め入ります。時には反乱を起こし、和人の築いた城柵を襲ったことが、日本書紀に記されています。。
平安後期の東北北部は動乱の時代で、安倍氏や清原氏は俘囚(ふしゅう:朝廷に服従、捕虜となった蝦夷)の長であると、蝦夷との系譜であることをを主張していた。
やがて、平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北部まで及ぶことになる。
まもなく、奥州藤原氏は源頼朝率いる鎌倉政権によって滅ぼされる。幕府は東北地方各地に武士を派遣し、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)によって支配されることになった。
※古代の蝦夷(えみし)とは、本州東部から、それ以北に居み、政治的・文化的に大和朝廷やその支配、帰属、同化を拒否していた集団を示していた。
東北地方の蝦夷(えみし)の民族系統については、蝦夷をアイヌ人とする蝦夷「アイヌ説」と、蝦夷を和人の一部とする「蝦夷辺民説」の二説に分かれています。これ以降、蝦夷、俘囚(朝廷に服従した蝦夷は、各地に強制移住させられた)などと呼ばれ、民族的諸概念は姿を消し、「エゾ」と置き換わる。
藤原氏3代(祖は、平安中期の平将門の乱で活躍した藤原秀郷、その孫経清が陸奥の国に下向し、その子清衡が藤原姓を名乗り奥州藤原氏の時代が始る)は、調査の結果、骨格は日本人の骨格であるとされた。藤原3代は日本人であったとした。一部説には、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化し、精神や葬祭慣行はアイヌ的なものが残っていたとして、多くの謎が残る。
古くから統一された組織集団ではなく、勢力を増大させていく大和朝廷により、やがて征服・吸収されて行来ます。
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷に統一的な企てが無かったのか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたと二節に分かれている。『日本書紀』に記載されている。
アイヌ文化はいつまで遡れるのかという疑問がある。アイヌ文化には古くから狩猟採集というイメージが強いが、考古学研究により交易を中心とした文化と捉えらるようになった。
北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的に接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。アイヌの歴史は、そうした地政的な環境に加えて北海道周辺の自然に根差し、独自の文化・民族の変容と言える。
アイヌの歴史の解明には考古学的な研究に加えて、北東アジア世界との相互的・広域的な歴史との関連付けと、北海道周辺の自然環境にも考慮する必要がある。

苗字が普及したのはいつ頃ですか。どの様にして名前は決められたのですか?
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全国的に数の少ない苗字は、比較的最近の名字や個人が考えた名字と言えます。
多くの名字の由来は、①地名、②地形・風景、③方位・方角で付けられました。
次に多いのが ④職業、⑤下に藤からとなっております。
それぞれが組み合わされた「川上」「山下」等と言った名字も多く、方位も見られ、北を子、東を卯などの干支をあてる名字もあり、「巽」「辰巳」(南東のこと)などの名字は方位姓と言えます昔は水は大変貴重にされ、山中の湧き水を大和言葉で「しみず」と言い、清らかな水という意味で「清水」とした。
「井」というと、水汲み場で川や池にあるのが普通で「川井」「池井」という名字になり、「井」の上の方に家があれば「井上」となりました。
川には橋がかかっている。村の高いところに橋があれば、「高橋」になり、ルーツの発見にも繋がります。
‖ 明治8年、すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい)である。陸軍省は徴兵事務に支障をきたしているとし、全国民に苗字を持たせることとなった
‖ 苗字のない者たちの苗字作り 旧士族だった者は武士時代の苗字を戻す者が多く、百姓や町人の大部分は祖先の地を付ける者、屋号や職業名を名字にする者もあった。百姓などの字が書けない者は、村の学識者(僧侶、神主、塾の師匠など)につけてもらったケースが見られる。僧侶や塾の師匠につけてもらって、檀徒、氏子、釈氏、釈子、仁木、孝子といった苗字になった者もある。
‖ 役場の戸籍係に苗字をつけてもらう者 戸籍係に適当につけてくれと頼んだ結果「適藤」に、「先祖が戦で手柄を立てた」ので「手柄」という苗字になった者もある。「古い家柄だ。それを盛り込んでくれ」と言われた戸籍係が「古代はどうだ」と聞くと「もう少し古い」といい「太古は?」と聞くと「もっと古い」というので太古前という苗字に決まった者もあった。
前の人と同じ苗字という意味で「左に同じ」といったら左同になった者もあった。店主に苗字を付けてもらった二人の店子が役場に付いたときには何という苗字だったか忘れてしまい、「二人が・・・二人が・・・」と口ごもっていたら、両名も「二人」という苗字にされ、その後「ふひと」と読むと教えられたという。
日本一立派な姓が欲しいと「陛下」にしようとした者もあったが、村長の忠告で「陛上」にし、現在は「階上」に落ち着いているという。 鰻取りの名人だから「鰻」にする者、夫婦喧嘩をやめるよう「円満」にする者、未亡人が新しい主人を射止められるよう「射矢」にする者、賤ヶ岳七本槍の加藤・福島・片桐・脇坂などや、徳川四天王の酒井・榊原・井伊・本多など有名武将と同じ苗字にする者などもあった。大阪の下町の46軒の長屋の住民たちが仮名手本忠臣蔵の47士の苗字(「大星」「寺岡」など)からくじ引きで決めたという事例もあった。申請は役所において口頭で名字を伝えることによって行われた。当時の役人すべてが読み書きが自由にできたわけではなかった。そのため漢字を間違えて登録したケースが存在する。有名なのは「サイトウ」である。「サイトウ」の書き方に「斉藤」「斎藤」「齋藤」「齊藤」と種類ができたのは、この時であるという。もともとは「斎藤」が由来で、それ以外の3つは役所の書き間違いの姓という。
姓氏研究家 森岡 浩さん
1961年4月10日、高知市生まれ。早稲田大学政経学部卒業。

養子縁組は多く行われていたようですが、縁組相手は親族が多いですか?
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家系図には多くの養子縁組が記録に残っています。先代からの大切なメッセージが見つかるかも知れません。
幕末期統計から、農民の戸主の約2割が養子で、武士階級ではもっと高かったようす。
この背景の一つには『多産多死』であり、また明治から昭和初期は、家の存続が何より重視された時代で、あってはならないことだったのです。武士にとってはお家断絶となりました。
養子縁組には、単なる「跡取りが居ない」戸籍謄本表記以上に家々の「物語」が潜んでいます。
・家系が絶えそうなとき、遠縁の者を迎え入れて「家の灯」を灯し続けようとした。
・娘しかいない家が、婿養子を迎えて「家名」を継がせる。
・幼少期に親を失った子が、養子として引き取られ、やがて「第二の家族」として育つ。
・他には「家の格式」を上げるために、格式が高い家の二男、三男坊を迎い入れる等です。こうした背景には、家の誇り、悲しみ、希望、繁栄、人間関係の複雑な思惑が絡み合っています。戸籍に養子縁組があったなら、その人物がどんな関係で迎えられたのか、その選択を読み解くことで、「家族の物語」が浮かび上がってきます。
養親と生み親が同じ一族だったり、同じ商売をしていた家同士、同じ問屋を営んでいた家が、養子縁組を通じて一つになっていった。意に添った関係であれば良いのですが?
日本では、長い歴史の中で、血縁、血縁を超えた『絆』が育まれてきたのです。
養親、生みの親の両家系も調べる価値はあるのです。丁寧に紐解いていくことで、「物語」出来上がってきます。

粗祖母は7男4女を育てました。どんな時代背景だったのですか?
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農村部では家業や田畑の労働力として、多くの子を持つことは、当たり前のこととされた。
女性は10代後半で結婚することが一般的で、20年以上にわたって出産を繰り返すことが出来たのでした。
他には、妊娠を避ける手段が限られていたため、自然に多産となったのです。
仏教や儒教の教えでは、子どもは天からの授かりものとされ、産むことは徳とされました。
江戸期では、家を継ぐ男子を多く持つことが喜ばれました。
江戸時代初期では、1歳まで生き延びる子どもは全体の20〜25%程度だったとされ、男子を複数人産まないと家が途絶えるという現実がありました。
また、医師がいない中、町民は近所の経験者や産婆が出産を支えたのです。
明治期に入り、西洋医学の導入により乳幼児死亡率が徐々に低下したことで、人口増加に繋がるようになり、更に明治政府は富国強兵のためと、生むことを奨励したのです。

家に仏壇がありません。家系図に手を合わせ、手元供養をしている人がいると聞いたことがありが、供養になっているのですか?
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先祖供養とは、心の深層に触れることです。
名前・生没年・居住地などが家系図に掲示されることは、忘れ掛けた先祖の「存在」を浮かび上がらせ、心が触れ合う供養の原点となっています。
更に、家計図からの戦争、移住、家業の成り立ち、家族の葛藤などを浮かび上がらせることは、繋がりに共感し、敬意を示すことであり、供養につながると思っています。
家系図を見ながら「この人がいたから今の自分がある」と感謝することは、供養の核心と言え、仏壇の前で語りかけ、心を通わせ、感謝することは、心が癒やされる貴重なことと言えます。
家族の語り合い、命日にその人を思い出すことは、日常の中に供養の機会を多く生み出し、形式に縛られない、柔らかな現代版供養と言えます。
家系図に「感情」「物語」を織り込められるなら、供養はさらに深く、豊かな自分の心の支えになると思います。

墓や仏壇、着物に家紋付いていますが、同じ家紋は、一族なのですか?
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家紋は、天皇や皇族が着物につけた柄、 自分の牛車につけたのが家紋のルーツといわれ、鎌倉時代の武家社会に浸透していきました。
さらに戦場やあらゆる場所で家紋をかざすことで、自分の武勲や敵味方の印に使いました。
戦国時代に入ると同族同士での争いが増え、同族でも異なる家紋を使用するようになり、種類が増えて行きます。また功績ある家臣への褒美としても使われるようになります。
やがて、江戸時代には一般庶民にも広がります。
一般庶民の家紋は、家や一族の標識として使われるようになります。
現在では、系統や同族関係を明らかにする参考として有効となりますが、家紋からの先祖の由緒や出自を遡り、探ることには無理があります。
同じ集落の同じ苗字出会っても、家紋が同じとは限らないことがあり

先祖は「名主」であったと言い聞かされていました。どんな身分なのですか?
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ちょっと長くなりますが、以下の文をお読みください
7世紀半ば「大化の改新」によって、朝廷は律令制度を発布により、身分の区分、差別の時代が始まりました。
地方に「国司」(朝廷から派遣された行政官)を配置し、中央集権化を進めます。
「氏」は血縁関係や共同体を基盤に、同じ血縁の一族(一族の氏神を祀っていた)を形成していました。一方、姓はその一族の中での地位や家柄、職能を示すものとして位置付けられていました。「氏」と「姓」は密接に結びついており、どちらも一族の社会的地位を示すための重要な役割を果たしました。社会的な位置づけの役割を果たしており、貴族社会において、同じ氏を持つ人々の中でも、その姓によって実力や家柄の違いが明確に身分は分けられていました。
氏姓制度は時代とともに変遷を重ねて行きます。奈良時代や平安時代初期には、氏姓制度は非常に重要であり、貴族や武士の階層を規定していました。しかし、鎌倉時代以降、武士階級の台頭とともに姓が家柄や役職に基づいて再編成され、氏よりも姓の方がより重視されるようになりました。このように、時代の背景や社会構造の変化に伴い、氏と姓の関係も進化していったのです。
地方の国司の子孫がやがて、武力団を形成したことが武士の始まりです。
天皇・皇族を頂点に、その下に天皇・皇族家に仕える「公家」(くげ)、その下に武士、さらにその下に「凡下」(ぼんげ)と呼ばれる庶民(名主・農民・足軽・商人・職人など)という身分構成が生まれることになります。
やがて、平安時代末期には武士が大きな力を持つようになり、次第に天皇の政治的権力は低下していきます。
改元(元号の改変)や寺院への勅願寺(天皇の発願によって皇室繁栄、鎮護国家を祈るための寺院)の指定、綸旨(天皇の命令文書)の発給、大名への官位授与といった一定の役割は保持されていた。
戦国時代になっても天皇の権威が墜することはなく、織田信長は実質的な天下人となってからも「天皇から権力を委譲されている」という形を取り、その遺志を継いだ豊臣秀吉も「関白」(天皇を補佐する官職の最高位)の職を得ることで、自身の政権が正当であることを誇示した。
天皇の権力低下は、公家も力を失い、戦国時代には生活に困窮する者が続出した。
寺社の私有地を武士に押領され、収入源が激減したため、駿河(現在の静岡県中部)の今川氏や周防(現在の山口県東南部)の大内氏といった有力な戦国大名を頼って都落ちする公家も多く出ました。
一方、公家が地方に身を寄せたことで、京文化が全国各地に広まったとも言われています。実質的な最高権力者は「将軍」であり、地方で力を持った「大名」。
「将軍」の正式名称は、「征夷大将軍」です。本来は「蝦夷」(えみし)と呼ばれた東北地方の反乱を鎮圧する任務を指しましたが。鎌倉時代以降は幕府の最高権力者を表す官職となりました。
鎌倉幕府及び室町幕府は、地方に「守護」と「地頭」を置き、各地の治安維持と警備を任せた。室町時代後半になると、天皇・公家の弱体化とともに各地の守護(=武士)や「守護代」が力を付け、公家の荘園を押領して領主となったことから「守護大名」(しゅごだいみょう)と呼ばれるようになりました。独立を進めた元守護の武士が「戦国大名」と呼ばれる武士達です。独自の制度を制定して統治を行いました。
将軍や大名の配下である「国人」、半農半士の「地侍」。国人は、鎌倉幕府の地頭や荘官(荘園の管理者)の流れを持つ小領主で「国衆」(くにしゅう)とも呼ばれます。
室町時代後半、守護が大名化するなかで、そのまま彼らの家臣になる国人もいれば、戦を起こす国人もいました。
地侍は、平時は農業に従事し、半農半士の生活をしていた。国人と地侍は、直接的な主従関係にあったわけではなく、柔軟な関係で結ばれていた。寄子は、戦時のみ国人の指揮で動いた者たちです。
農村の村落の指導者である「名主」、身分の多様な「農民」、脇百姓から出た「足軽」と身分は作られた。
「名主」は村落の指導的な立場で、名字を名乗ることも許されていて、多くの名主は地侍でもあったため、戦時には国人にしたがって合戦にも参加していた。その名主の下に位置するのが「農民」で、自らの畑で生活をまかなう「自作農」と、借りた土地請け負う「小作農」に別れていました。
「商人」は情報源としても重用され、領国を支えた。戦国時代は、大きな都市以外では常設の店舗がなく、定期開催の「市」や商品を手や肩にかけて売り歩く商売が行われていました。「商人」は、食材や日用品、工芸品など様々な商品を販売していて、高い技術力を要する商品を作るのが「職人」です。
商人は、仕事を通じて自国以外の情報を得やすいことから、大名に重用されることもあった。職人は貴重な存在で、刀鍛冶師や高い専門技術は領国の基盤と考えられていました。
戦国時代においては、有力寺院や神社は大名と対立するほどの強い兵力を持つようになり、特に仏教の「天台宗」(てんだいしゅう)や「真言宗」(しんごんしゅう)、「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)は激しく大名と争った。
織田信長は1571年(元亀2年)、天台宗の総本山である比叡山の焼き討ちに踏み切ります。
一方「禅宗」(大きく臨済宗と曹洞宗に分かれる)は、参謀のような役割を担い大名を支え、大名の子弟の指導を務めるなど、戦国大名と密接にかかわりました。
戦国時代には天皇を中心とするピラミッド型の身分構成が形成されていて、世は下剋上。
国人や地侍の身分から大名になる者もあれば、都落ちする公家もありました。
江戸幕府では、士・農民・町民(商人・職人)と身分が明確に分けられた。武士以外の身分の人々には着物や食事などについて細かな取り決めを強いていて、武士が農民や町民を支配する構造になっていた。
武士がより強い権力を持つようになり、社会格差が広がっていくのです。
お申し込み書類到着後、委任状に基づき本籍地役場に戸籍謄本を当方で請求します。戸籍謄本がすべて揃った旨のご連絡を差し上げ、半額分の請求書送付します。

三陸を襲った津波で大変な被害を受けたと言い伝えられて来ました。どんな被害を受けたのですか?
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三陸は、数百年ごとに周期的に巨大地震が発生しています。堆積物調査などからも判明しています。
それぞれの津波には、家族の悲しい物語や村の悲惨さ、悲話や教訓が地域に残されており、乗り越えて来た地域の人々の魂が浮かび上がります。
三陸地震の悲話は、単なる災害記録して捉えるだけではなく、家族の絆、運命のさだめ、そして命の尊厳の物語でもあり、数多くの悲話が沿岸の村々に語り継がれ来ています。
・明治三陸地震津波(1896年)の悲話
花火大会の最中に襲った津波(岩手県・大槌町)。 凱旋兵士9人を迎える祝賀の花火大会が開かれていた夜、4発目の花火が打ち上がった直後、雷のような音とともに津波が襲い、数百人が犠牲となりました。勝利の祝宴が一瞬で悲劇に変わったのです。
・結婚披露宴の最中に(宮城県・歌津村)
新郎新婦が三三九度の盃を交わしている最中、津波が襲来、花嫁も来客も流され、花婿だけが奇跡的に助かりました。婿さんは心の病にかかり、目を虚ろにして嫁さんを探し回るその姿は、村人の涙を誘ったと伝えられています。
・船幽霊と誤解された漂流者(岩手県・重茂村)
マグロ漁に出ていた漁師たちは、津波後の海の彼方から人の声を聞くも「船幽霊」と思い込んで、潜めていたそうです。やがて「助役の山崎だぞー!」という叫び声で事態に気づき、急ぎ救助を開始したそうです。恐怖と迷信が命の分かれ目となった瞬間でした。
これらの悲話は、家族の記憶や地域の魂として引き継がれ、今も生きています。
石碑に刻まれ残されているそうです。

家系図作成する側として、配慮していることはありますか?
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家系図を単なる先祖の系統図としてだけではなく、時には、家族の「癒し」にもなり、「継承」され、「コミュニケーション」の側面として捉え制作しています。
事実に基づき記載することです。家族からの情報を優先しつつ、推測には注釈を付ける
・戸籍、過去帳、墓碑、聞き書きなど、情報源の出どころを出来る限り明記し、不鮮明、矛盾事項には注釈を添える。
・西暦・元号の併記や旧地名と現在の地名を出来るだけ明記する配慮
・戸籍謄本に記載している養子・庶子・再婚・離婚など、一人ひとりの情報を記載
・時には、公開範囲や実名を伏せるなど、感情的・倫理面に配慮
・家族の痛みや秘密への敬意を払い、必要に応じて依頼者と相談も
特徴
・先祖の行動や出来事を規制概念と捉えず、背景や事情、時代性を知ろうとする姿勢。
・家系図は喜びだけでなく葛藤や悲しみも映し出しており、読み込む力を養う。
・移転、職業、信仰、出来事を事実としてだけではなく、「ご先祖のの魂」が感じられるように配慮
・災害、移住史、戦争や飢饉など、その土地の特殊性や家族の記憶を重ね、織り込む
・子や孫が読んだときに、自分のルーツに誇りと興味がわくように語り部を意識する
・終活として、作成依頼する高齢者も多く、人生の整理と子や孫に「私のこれまでの記録」としての配慮。

戸籍謄本は、くずし文字、劣化によるかすれがあり、読み取れませんでした。どのような方法で解読していますか?
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例えば「○○の嫡男」「○○村出身」など、前後の文脈で文字の意味が浮かび上がることもあります。また筆跡の癖をつかむことで、判読がしやすくなります。
明治以前の文書に多く登場します。ひらがなの元となった漢字の草書体を使った変体仮名、謄本に記載されているくずし文字は、解読が困難な場面もありますが、特徴を掴み、慣れも大切かも知れません。
戸籍や過去帳、寺の記録、筆で流れるように書かれており、文字の判別が難しく、特に人名や続柄(嫡男・庶子など)に使われることが多い草書体・行書体は作成者を悩まし、特に解釈の大事な場面にでてくるものです。
解読のためのヒントとして
•変体仮名、くずし文字辞書等を活用する
• 図書館の学芸員や郷土史家に相談
•地域特有の筆跡や表記法を知る人がいることもあります。
• 謄本の文脈から推測することも多くあります。

家に鎧・槍・兜があったと聞いています。本当なのか調べてみたいのですが?
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先祖がどのような武具を持っていたかは、家の立場や時代背景を語る大切な手がかりになります。家系に武具に関する記録や伝承があるなら、それを読み解くことで、家の誇りや苦難の歴史が浮かび上がるかもしれません。
余談ですが、なかには娘の嫁ぎ先と家の格式が不釣り合いであったために、武具を備えたご先祖もいたとか、なかったとか聞いたことがあります。
鎧・槍・兜といった武具は、単なる戦闘道具とは限らず、身分や誇り、家の歴史を象徴するものでもあります。
鎧・槍・兜を持っていた身分の範囲として、鎌倉〜室町時代は、武士階級(御家人・地頭など)であり、鎧兜は戦闘の必需品として、また家の格式や戦功を示す物も多く、家紋入りの兜や豪華な大鎧もありました。
下級武士(足軽など)は、簡素な具足や槍を持ち、兜も鉄製の簡易なものでした。
戦国時代は、戦乱が激化すると、農民は足軽として徴用されることも多く、槍や簡易な兜を持つことがあリました。戦国時代は「槍一筋で出世」も可能だったため、槍は庶民にも常備の武具として、保管されていたようです。
江戸時代の平和期には、上級武士の鎧兜は儀礼用・家宝として扱われ、格式を示すものになります。
町人・農民は、原則として武具の所持は禁止されており、祭礼や芝居などで模造品を使うことはあリました。

身分制度の始まり、その後の庶民の暮らしの影響について教えて下さい。
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武士がより強い権力を持つようになり、社会格差が広がっていきます。
7世紀半ば「大化の改新」によって、朝廷は律令制度を発布により、身分の区分、差別の時代が始まりました。
地方に「国司」(朝廷から派遣された行政官)を配置し、中央集権化を進めます。
「氏」は血縁関係や共同体を基盤に、同じ血縁の一族(一族の氏神を祀っていた)を形成していました。一方、姓はその一族の中での地位や家柄、職能を示すものとして位置付けられていました。「氏」と「姓」は密接に結びついており、どちらも一族の社会的地位を示すための重要な役割を果たしました。社会的な位置づけの役割を果たしており、貴族社会において、同じ氏を持つ人々の中でも、その姓によって実力や家柄の違いが明確に身分は分けられていました。
氏姓制度は時代とともに変遷を重ねて行きます。奈良時代や平安時代初期には、氏姓制度は非常に重要であり、貴族や武士の階層を規定していました。しかし、鎌倉時代以降、武士階級の台頭とともに姓が家柄や役職に基づいて再編成され、氏よりも姓の方がより重視されるようになりました。このように、時代の背景や社会構造の変化に伴い、氏と姓の関係も進化していったのです。
地方の国司の子孫がやがて、武力団を形成したことが武士の始まりです。
天皇・皇族を頂点に、その下に天皇・皇族家に仕える「公家」(くげ)、その下に武士、さらにその下に「凡下」(ぼんげ)と呼ばれる庶民(名主・農民・足軽・商人・職人など)という身分構成が生まれることになります。
やがて、平安時代末期には武士が大きな力を持つようになり、次第に天皇の政治的権力は低下していきます。
改元(元号の改変)や寺院への勅願寺(天皇の発願によって皇室繁栄、鎮護国家を祈るための寺院)の指定、綸旨(天皇の命令文書)の発給、大名への官位授与といった一定の役割は保持されていた。
戦国時代になっても天皇の権威が墜することはなく、織田信長は実質的な天下人となってからも「天皇から権力を委譲されている」という形を取り、その遺志を継いだ豊臣秀吉も「関白」(天皇を補佐する官職の最高位)の職を得ることで、自身の政権が正当であることを誇示した。
天皇の権力低下は、公家も力を失い、戦国時代には生活に困窮する者が続出した。
寺社の私有地を武士に押領され、収入源が激減したため、駿河(現在の静岡県中部)の今川氏や周防(現在の山口県東南部)の大内氏といった有力な戦国大名を頼って都落ちする公家も多く出ました。
一方、公家が地方に身を寄せたことで、京文化が全国各地に広まったとも言われています。実質的な最高権力者は「将軍」であり、地方で力を持った「大名」。
「将軍」の正式名称は、「征夷大将軍」です。本来は「蝦夷」(えみし)と呼ばれた東北地方の反乱を鎮圧する任務を指しましたが。鎌倉時代以降は幕府の最高権力者を表す官職となりました。
鎌倉幕府及び室町幕府は、地方に「守護」と「地頭」を置き、各地の治安維持と警備を任せた。室町時代後半になると、天皇・公家の弱体化とともに各地の守護(=武士)や「守護代」が力を付け、公家の荘園を押領して領主となったことから「守護大名」(しゅごだいみょう)と呼ばれるようになりました。独立を進めた元守護の武士が「戦国大名」と呼ばれる武士達です。独自の制度を制定して統治を行いました。
将軍や大名の配下である「国人」、半農半士の「地侍」。国人は、鎌倉幕府の地頭や荘官(荘園の管理者)の流れを持つ小領主で「国衆」(くにしゅう)とも呼ばれます。
室町時代後半、守護が大名化するなかで、そのまま彼らの家臣になる国人もいれば、戦を起こす国人もいました。
地侍は、平時は農業に従事し、半農半士の生活をしていた。国人と地侍は、直接的な主従関係にあったわけではなく、柔軟な関係で結ばれていた。寄子は、戦時のみ国人の指揮で動いた者たちです。
農村の村落の指導者である「名主」、身分の多様な「農民」、脇百姓から出た「足軽」と身分は作られた。
「名主」は村落の指導的な立場で、名字を名乗ることも許されていて、多くの名主は地侍でもあったため、戦時には国人にしたがって合戦にも参加していた。その名主の下に位置するのが「農民」で、自らの畑で生活をまかなう「自作農」と、借りた土地請け負う「小作農」に別れていました。
「商人」は情報源としても重用され、領国を支えた。戦国時代は、大きな都市以外では常設の店舗がなく、定期開催の「市」や商品を手や肩にかけて売り歩く商売が行われていました。「商人」は、食材や日用品、工芸品など様々な商品を販売していて、高い技術力を要する商品を作るのが「職人」です。
商人は、仕事を通じて自国以外の情報を得やすいことから、大名に重用されることもあった。職人は貴重な存在で、刀鍛冶師や高い専門技術は領国の基盤と考えられていました。
戦国時代においては、有力寺院や神社は大名と対立するほどの強い兵力を持つようになり、特に仏教の「天台宗」(てんだいしゅう)や「真言宗」(しんごんしゅう)、「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)は激しく大名と争った。
織田信長は1571年(元亀2年)、天台宗の総本山である比叡山の焼き討ちに踏み切ります。
一方「禅宗」(大きく臨済宗と曹洞宗に分かれる)は、参謀のような役割を担い大名を支え、大名の子弟の指導を務めるなど、戦国大名と密接にかかわりました。
戦国時代には天皇を中心とするピラミッド型の身分構成が形成されていて、世は下剋上。
国人や地侍の身分から大名になる者もあれば、都落ちする公家もありました。
江戸幕府では、士・農民・町民(商人・職人)と身分が明確に分けられた。武士以外の身分の人々には着物や食事などについて細かな取り決めを強いていて、武士が農民や町民を支配する構造になっていた。
📌ご依頼者様からの声
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👣温故知新
📌 転勤等で実家を離れ、親戚関係とは付き合ったことはなく、何かあったら大変と 思 っていました。 急に父が亡くなり、先祖、親戚、お墓のことなどまったくわか りませんでした。親戚の人からのアドバイスでなんとか葬儀は終えました。親戚 筋とは一族と感じ、本家として、家系図制作しました。 山形在住/40代/男性
📌 女性は、働き手として嫁ぎ、病気で働けなくなり、子どもが出来ないからと実家 に戻され、まもなく亡くなりました。「我が家の悲話」として、受け継がれていま す。
📌 落ち着気がなく、話すことが少くなった認知症の祖母との会話ツールとして、家系図を作りました。思い出の写真を見て笑顔がみられるようになりました。いい思い出です。 神奈川在住/70代/女性
📌 母の還暦のお祝いにと思い、贈りました。思い出の写真を整理して、私にもいろいろな話をしてくれます。 青森在住/60代/女性
📌 きっかけは、NHKの『ファミリーヒストリー』でした。思い切って作成を依頼し ました。 神奈川県在住/70代/女性
📌 いつでも取り出せるコンパクトな家系図を作りたいと思っていました。主人の没 年月日から命日は忘れなくなりました。 東京都在住/60代/女
👣 諸行無常
📌 和菓子店の世代交代に家系図を作成しました。家族みんなで仲良く続けていけるようにと願いを込めて、後継者に贈りました。 東京在住70代和菓子店/男
📌 家系図を作っても直接的な見返りはなく、乗り気ではありませんでした。NHKの『ファミリーヒストリー』を見るようになってから、出演者の涙を見て、つながりの大切さを意識するようになりました。 富山在住/50代/男性
📌 同じ日に亡くなった幼い兄弟3人が記載されている家計図を見て、亡き祖父母の辛さが伝わってきます。供養しています。 盛岡在住/60代/女性
👣指針明示
📌 終活準備を考えるようになり、我が家の魂、歴史というか、目に見えないことが大切に思え、家系図として残すことを決めました。 神奈川県在住/50代/女性
📌子どもが出来なく、夫も亡くなり、一人住まいです。 「家じまい」となります。ご先祖には申し訳ないと思い、甥っ子に家系図の保存してもらいたいと思い、作成依頼しました。 岩手在住/70代/女
記録の少ない庶民の家系を遡る。
どの家にも、言い伝え、習わしやしきたりがあり、ご先祖様の生きた証が受け継がれて来ております。
生きた証は、先祖から私どもへと受け継がれ、そして明日へと繋がって行きます。
家柄や身分とは縁がなかった多くのの庶民の励みがあったからこそです。
家系図は、これまで過去にお公家、武家や上流階級の格式・身分を誇示するために用いられていました。今では、何方様も江戸末期頃からの家系図をお作りいただけるようになっております。
「我家の家系図」として、 人生の区切り、長寿・成人の記念として、また秘宝として、次世代に繋いで頂ければ幸いです。
一般社団法人 家系図普及会
📞 よくある質問、問い合わせ
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Q申込書に添付する身分証明書は何が必要ですか?
運転免許証又は顔写真入りマイナンバーカード(表面のみ)コピー
※上記をご用意いただけない場合は、国民健康保険者証でも構いません
Q追加料金はかかりますか?
自治体への戸籍請求手数料、切手代、ご納品配送代金等は料金に含まれており、通常、追加料金は発生しません。
Q制作追加料金が発生する例
・直系以外の系統の追加
・レイアウトの大幅変更
Q家系図が手元に届くまではどれぐらいですか?
概ね3か月前後となります。遅れる場合は、ご連絡を差し上げております。
Qシンプル家系図とセット家系図の違いは?
セットは「家系図」「系譜」「生没歴史年表」3点セットとなっています。
シンプル家系図は「家系図」のみのお届けです。
Q家紋調べられますか?
家紋の調査は行っておりません。家系図に記載する場合は、その名称や写真などが必要です。同系親族と。家紋は必ずしも一致はしませんので注意が必要です。
Q戸籍・戸籍調査について、いつ頃、何代前まで遡ることができますか?
約5~6代目の江戸末期頃までは、概ね判明しております。
戦災や震災により、戸籍が消失した自治体はその限りではありません。
Q親族と言われている戸籍の取得はできますか?
傍系ご親族の戸籍は、「委任状」の取得制限から謄本取得できません。
戸籍はご依頼者様の直系のみ遡って取得が可能となっております。
尚、おじ、おば等のお名前や生没年月日等は、家系図に記載されます。
Qご先祖様が養子縁組をしていたかどうか分かりますか?
戸籍簿調査で判明します。家系図には養父母、実の父母の住所・名前が記載されます。
実父母についての調査希望の場合は、お知らせください。別途料金となります。
※明治時代は、子供のいない夫婦が家を存続させるために、能力のある人物を家系に入れる、家柄の良い家から養子を迎え家柄を高める等の目的で養子縁組は容易におこなわれていました。家督が途絶ると、家の財産は国庫に帰属、社会的な制裁もあったようです。徴兵を逃れるための「兵隊養子」も行われたようです。
Q平安時代のお公家が子孫と言われて来ました。子孫を解明して、平安までの家系図作成お願いできますか?
依頼はありますが、文献消失などで途中で行き詰まることが多く、扱っておりません。
Q嫁ぎ先住所、相手、実家はわかりますか?
判ります。婚姻年月日も記載されています。
Q旧住所⇒新住所検索は出来ますか?
可能です。検索アプリがあります。
Qその地域に同姓の人数は判りますか。
判ります。検索アプリがあります。
Q生没年月日の記載されてないご先祖様がいるのはなぜですか?
戸籍調査で生没年月日が記載がない場合は家系図には記載されません。
傍系ご先祖様の没年月日は判明しない場合が多いのです。結婚、分家などで新しい新戸籍したことで、新戸籍に記載されたと思われます。調査は可能です。
Q直系のご先祖様が養子であった場合、養子縁組前の旧姓の家系図を作ってもらうことはできますか?
養子縁組前の旧姓の家系図は有料作成となります。
家制度が色濃く残っていていた時代は、家の存続は重要な社会的義務であり、戸主の責任とされました。
Q養父・実父の両方の戸籍を辿ることができた場合、家系図の記載はどのようになりますか?
養父のご先祖様はご依頼者様と名字が同じなので、家系図に記載されます。
実父のご先祖様については、別途作成となります。
Q自分の従兄弟、甥や姪も家系図に記載できますか?
戸籍謄本等の記載情報をご提供いただければ、追記できます。
Q戸籍調査では判明しなかったご先祖様の名前や生没年月日を家系図に追記してもらうことはできますか?
対応可能です。追記や削除、修正などご指示いただければ、可能な限り対応いたします。 尚、家系図レイアウトを根本から変更の場合は有料とさせて頂きます。
Q祖父母から聞いたご先祖の話をまとめてあります。家系図や系譜に追記してもらうことはできますか?
対応可能です。「庶民の家系図」作成では、何気ない情報から思いがけない事実につながることが多くあります。
中間報告で家系図・家系譜を送付しております。メモ的に直接に追記して下さい。
QNHKファミリーヒストリーで見られるお寺に保存されている過去帳、お墓の調査などで現地に赴いたり、親せき縁者に聞き取り調査を行うのでしょうか?
これらの調査は個人情報法の兼ね合いから調査は難しく、現地に赴き、親せき等への聞き取り調査は厳しいところがあります。
ご自身で親せき縁者にお手紙で事情を知らせ、また作成の暁には家系図を送るなどして、情報を仕入れている方もいらっしゃいます。
Q御社に家系図の作成を依頼した場合、どれくらいまで遡れますか?
戸籍調査の一般家系図では明治時代初期から江戸時代末期ごろまで遡れます。現地調査の家系図制作では系図に沿って、漏れなく現地調査が必要となります。また戸籍調査だけでは判明しない情報を日本全国からかき集めたり、現地調査に赴かなければならないことも多く、時間と手間、経費を投じなければなりません。また個人情報の壁、門外不出の資料が弊害となり、前に進まないことも多くありました。また高額な家系図となります。
Q御社が作成する家系図の信憑性はどの程度ですか?
弊社家系図は戸籍謄本に基づき、憶測や推測を排除し、事実に裏付けられた家系図作りを方針としています。ただ庶民の家系図は、裏付けとなる歴史書が少なく、みなさんからの先代から聞いたことのある話をまとめ上げて作られております。
Q私は家系図を作るような家柄ではありません。また誰にでも家系があるわけではないと思うのですが…?
いま私たちがここに居るのは、家柄に関係なく、ご先祖一人一人の生と死と生命の誕生があったからです。誰にでもひとりひとりの大事な家系は必ずあります。
Q本籍地が遠いのですが、家系図の作成を依頼することは可能ですか?
可能です。本籍地が遠くても家系図を作成しております。尚、頻繁に現地調査に赴かなければならないと判断される場合はお断りすることもあります。
Q家系図作成で収集した戸籍やその他の資料は返却してもらえますか?
責任を持って保管・返却させて頂きます。コピー類は、個人情報が洩れることの無いように、納品後の適当な時期に処分させて頂いております。
Q家系図に家紋を入れることは可能ですか?
可能です。
中間報告で掲載の有無をお尋ねしております。
Q調査原稿に記載されている人の削除や記載されていない人の追記はできますか?
可能です。アンケート、中間報告での修正、追記事項で承ります。
Q完成した調査データはどのように使っても良いのですか?
ご自由にお使い下さい。
USBメモリー情報はPDFとなっております。コンビニコピー機でも複写可能です。みなさんで共有が出来ます。
Q仏壇がありません。手元供養に家系図を作りたいと考えています。
そのような方が増えています。
アクリル製のスタンド型フォトフレームに家系図を入れ、亡くなった方のお気に入り写真を飾り、好きだったお花を飾るなどして手を合わせている方もいらっしゃいました。
🌑 制作事業者の特徴
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作成は行政書士の独占であった
行政書士は戸籍請求の特権として「職務上請求権」が認められていた。その特権が家系図を作成する上でも行政書士のみに与えられた特権と思われ、家系図作成は行政書士が独占していました。その「職務上請求権」を家系図作成業者に横流しの事件発覚がきっかけとなり、裁判まで争われ、独占業務ではないという判決が下されました。
🟰競争作用が生まれ、低価格、高品質な家系図が作成
その結果、独占価格から競争作用が生まれ、低価格、高品質な家系図が作成されるようになり、一般の方にも普及するようになりました。
🟰安い買い物ではありません。目的に合わせ事業者選び 家系図の作成は生涯で何度も行う物ではなく、安い買い物ではありません。豪華な家系図が持てはやされる傾向になっておりますが、どのようにご利用される目的に合わせ事業者を選んでください。





